なぜ津波到達までに緊急炉心冷却装置は起動されなかったのか(上) 『福島第一原発 メルトダウンまでの50年』の著者・烏賀陽弘道氏に聞く|DOL特別レポート|ダイヤモンド・オンライン
2016年4月7日 烏賀陽弘道
原発の立地地域では、多額の補助金や交付金などで豪華な“ハコモノ施設”が建てられてきた。各地に点在する「原子力発電への理解を訴えるスローガン」は、地元の人には見慣れた日常風景の1つだが、東日本大震災以降の福島県では立ち入りが制限されてゴーストタウン化が進む。誰も手入れする人はいない Photo by Hiro Ugaya
うがや・ひろみち
1963年、京都府生まれ。京都大学経済学部を卒業後、朝日新聞社に入社。5年間の新聞記者生活を経て、91年~2001年は「AERA」編集部に籍を置く。米コロンビア大学の国際公共政策大学院に自費留学し、国際政治と核戦略を学ぶ。03年に朝日新聞社を退社し、フリーランスのジャーナリスト兼写真家となる。11年3月の東日本大震災以降は、被災地を回って“原発災害”の実態を調査・記録し続ける。著書・共著に、『「朝日」ともあろうものが。』(徳間書店)、『俺たち訴えられました!』(河出書房新社)、『報道の脳死』(新潮社)、『原発事故 未完の収支報告書 フクシマ2046』(ビジネス社)などがある。Photo by Shinichi Yokoyama
世の中では忘れている人も多いと思われるが、2011年3月11日午後7時18分に政府が発表した「原子力緊急事態宣言」は、5年以上経つ16年4月現在でも解除されていない。東京電力福島第一原発事故で被爆した人は約23万人、避難生活を続けている人は約10万人いる。世界で3例目となったメルトダウン(炉心溶融)事故は、今も未解明の問題を残す。そんな中、1950~60年代の日本の原発黎明期を知る当事者を探し当て、取材を重ねた烏賀陽弘道氏に話を聞いた。(聞き手/「週刊ダイヤモンド」編集部・池冨 仁)
――5年近くもの月日を費やして書かれた『福島第一原発 メルトダウンまでの50年』(明石書店)は、過去の歴史を淡々と掘り起こす作業を通じて「東京電力が、“どのような場所なら原発を建ててもよい”という立地基準を国が定める前に、独自の基準で建設地を選定していた」など、ショッキングな話がたくさん出てきます。電力会社が先に決めたというのは、どういうことなのですか。
1950~1960年代の日本における原発黎明期の政策を調べていくと、驚くような事実がいくつも出てきます。私は「福島第一原発事故の原因は、50年以上前からあったのではないか」と考えるようになりました。50年以上かけて、さまざまな原因が蓄積された結果として、今回の事故に至ったのではないかということです。例えば、福島第一原発の2号機は、11年3月に起きた東日本大震災の前年、10年6月にも「原子炉を冷却するための電源を失ったことで、炉内が空焚きになり、燃料棒が露出する寸前に至る」という事故を起こしています。
順番にお話ししますと、国(当時の原子力委員会。現原子力規制委員会)が「原子炉立地審査指針」を定めたのは52年前の1964年(昭和39年)5月です。一方で、東電が福島県の大熊町と双葉町に跨る旧陸軍の航空基地だった広範な土地を確保する方針を決めたのは60年(昭和35年)8月。当時の福島県知事が積極的に受け入れたことで原発の誘致計画が正式発表されたのが同年11月。運転開始は71年3月です。福島第一原発の立地に関しては、国からは何の規制も指導もなかったのです。原発の歴史を紐解いていくと、当時は「国がルールを決めて、電力会社を監督する」という関係にはありませんでした。
私が調べた限りでは、そうした“立地が先に決まった原発”は、東電の福島第一原発以外にも複数あります。研究炉を除くと、日本原子力発電(げんでん)の東海発電所(茨城県。66年に運転開始)、同じく敦賀発電所(福井県。70年に運転開始)、関西電力の美浜発電所(福井県。70年に運転開始)などがそうですね。関電の美浜発電所は、「人類の進歩と調和」を掲げて70年に大阪で開催された日本万国博覧会に送電したことでも知られています。
――東電は、1955年(昭和30年)頃から、原子力発電を採用する方針を決めていたと言われます。なぜ当時は、国と事業者の関係は逆転していたのですか。
私も、そういう疑問を抱きました。そこで、50~60年前の原発黎明期の事情を知っている人で、まだ生きている人がいないか調べました。すると、54年に米国政府の招きでアルゴンヌ国立研究所に留学し、原子力発電の技術を学んで帰国した“最初の2人の留学生”のうちの1人、伊原義徳氏が存命であることが判明しました。もう1人は、元東京大学教授の大山彰氏(故人)でした。
1924年生まれの伊原さんは、旧通商産業省(現経済産業省)で原子力発電・エネルギー関連の仕事を手掛け、最後は旧科学技術庁(現文部科学省)の事務次官になった“日本の原発の父”の1人です。とはいえ、電力業界の秘密主義を考えれば、断られることも覚悟していました。そこで、伊原さんのご自宅に「原発黎明期の歴史を調べています。ぜひ、会ってください」という趣旨のお手紙を出したところ、あっさり快諾してもらえたのです。すでに90歳近かった伊原さんを探し出して、正面からアプローチしたのは私だけだったそうです。
詳細は本を読んでほしいのですが、伊原さんは「(国の原子炉立地審査指針の策定よりも福島第一原発の立地が決まるほうが先だったことについて)当時はそんなものだった」と振り返ります。背景には、米国がドワイト・D・アイゼンハワー大統領の時代(53年1月~61年1月)に、過去には秘密にしてきた核兵器開発の技術(≒原子力発電の技術)を同盟国に輸出・解放することを通じて、米国の仲間を増やそうと大きく方針を変えたことがあります。東西冷戦が強まる中で、日本は世界で唯一の被爆国だったのですが、「世界の潮流に遅れてはならない」と、政治的に前のめりで原発の導入を急ぐ気運があったのです。
私はまた、もう一人のキーマンの話を聞きました。東電の元副社長で、福島第一原発の立地を担当した豊田正敏氏です。こちらも本に詳しく書きましたが、伊原さんと豊田さんの証言をまとめると、「当時は原発に関する知識や技術は、政府や原子力委員会の学者よりも電力会社のほうが先を行っていた」ことから、「福島第一原発の立地が政府のルールより先でもおかしくなかった」となるのです。原発黎明期の技術者は「原発は危ないもので、いつ暴走するか分からない。そうなったらどうするか」という思いで、世界でもまだ技術が確立されていなかった原発を「事故は起こり得る」という前提で考えていたそうです。
原発をめぐる損害保険なども、当時の保険業界では「(いくら国策とはいえ)大事故が発生した場合は、民間企業ではとても負担しきれない」という判断がなされたのですが、英国や米国の原発保険のやり方を真似るようにして、最後は国が負担することなどが“後から”整備されて行きました。後から、です。
東電の元副社長だった豊田さんは、福島第一原発で事故が起きた直後に東電の本社に電話をかけて、「日本には原発事故に関して知見を持つ人物がいるから、そういう専門家に話を聞くべきだ」と話しても、勝俣恒久会長以下の経営幹部は取り合ってくれなかったそうです。技術系の元副社長だったというのに(笑)。
“第3のシステム”もまったく生かされず
――烏賀陽さんの本では、第1章は「政府内部3・11のロスタイム」として、東日本大震災が起きた当日の政府内の動きを検証しています。菅直人内閣は、非常事態だったにもかかわらず、テレビ向けに閣議をやり直したそうですね。
はい。この話は、当時の経済産業大臣だった海江田万里氏だけが、回顧録の『海江田ノート 原発との闘争176日の記録』(講談社)に書いています。
午後2時46分に、東日本大震災が発生した直後の2時50分には官邸対策室が設置されて緊急参集チームに召集がかかりました。そして、第1回東北地方太平洋沖地震緊急災害対策本部会議がスタートしたのは午後3時37分でした。場所は官邸の地下にある危機管理センターです。時間は約20分だったそうですから、そこまでは迅速な動きで“事前に決められた行政手続き”の通りです。
ところが、閣僚の一人が「ここは(テレビの)カメラが入っていないから、カメラの前でもう一度、緊急災害対策本部会議を開いたほうがよい」と言ったそうで、当時の枝野幸男官房長官が「閣僚は全員、官邸4階の大会議室に集まってくれ」と指示を出した。それで、海江田さんは、「え? それって何?」と違和感を覚えながら、大会議室に向かったそうなのです。要するに、同じ内容の会議をもう一度テレビ向けに繰り返したという話で、海江田さんは「移動も含めて約30分の時間の無駄だった」と、回顧録の中で怒っていたのです。
これは、事故調査委員会の報告書や新聞報道などにも出ていない話だったので、私は海江田さんに話を聞きに行きました。海江田さんは、当時、経産大臣になって2ヵ月と日が浅かったのですが、原発を預かる官庁のトップとして、どのように感じていたのかを振り返ってくれました。でも、「誰が閣議をやり直す指示を出したのか」については、「いや、ちょっとそれは……言えないな」と目を閉じてしまいました。もしかしたら、「察してください」というシグナルだったのかもしれません。海江田さんは、回顧録と同様に「(閣議のやり直しは)時間の無駄だった」と率直に批判していました。
一方で、菅さんの回顧録である『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』(幻冬舎)には、テレビ向けに緊急災害対策本部会議が2回開かれたことにはふれず、簡単に済ませています。また、当時の官房副長官だった福山哲郎氏の『原発危機 官邸からの証言』(筑摩書房)は、記録としては非常によいのですが、所々でボス(菅さん)をかばっているのです(笑)。そこで、菅さんにも正面から取材を申し込んだのですが、残念ながら返事はありませんでした。
――福島第一原発事故は、なぜ原子炉が3基もメルトダウンするような大事故になったのか。烏賀陽さんの本では、その原因について、政府や国会、東電、民間で計4つあった事故調査委員会のどれもが素通りしたままの盲点が残っていると指摘しています。ズバリ言って、盲点とは何ですか。
本の核心となる部分です。それは、「東日本地震が発生してから、津波が福島第一原発に到達するまでの約50分間に、最初に起動しておくべきだった原子炉の緊急冷却装置を起動しなかったのはなぜか」という根本的な問題です。
簡単に言うと、原発には、大事故の際に大量の水を入れて燃料棒を強制的に冷やす「緊急炉心冷却装置(ECCS)」という強力な設備があり、まずそれを動かすことが世界のルールになっています。ところが、福島第一原発事故では、なぜか控えという位置付けで、ECCSの約10分の1の能力しかない「非常用復水器」(IC)と「原子炉隔離時冷却系装置」(RCIC)が動いた。しかも、津波の影響で全交流電源を失ってからは、今度は主力のECCSを動かすことができませんでした。この辺の事情は、本でも時系列で詳細に書いています。
実は、日本の電力業界内では「電源喪失は30分以内に収まると考えてよい」というルールの変更がなされていたのです。かつての「原発では事故は絶対に起こらない」という“安全神話”の中で、ECCSを動かせば、「大事故だ!」と反原発派は勢いづきますし、原子炉を水浸しにすれば、原発の寿命が縮まります。電力会社には「それは避けたい」という経済的な動機がありました。
だからこそ、電力業界は、なるべくECCSを使わずに済むようにルールを変更して経費削減を図っていたのですが、福島第一原発事故で裏目に出てしまいました。最初からECCSを使っていれば、1979年の米スリーマイル島原発事故、86年の旧ソ連(現ウクライナ)で起きたチェルノブイリ原発事故に続く、人類史上3度目となるメルトダウンは起こらず、敷地外に放射性物質をぶちまけるようなことはなかったかもしれない。これは、私の意見ではなく、原発のメカニズムに詳しい技術者たちが「人災だ」と指摘している点なのです。
また、もう一つ重大な過失があります。国は、原発事故の際に放射性物質が飛散する方角などを予測するシステム「SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワーク)」や、原子炉の温度や圧力をモニターしてデータを送信する「ERSS(緊急時対策支援システム)」を持っていました。さらに、この2つのシステムが作動しない最悪の事態を想定し、国内のどこの原発でどのような事故が起きても対応できるシミュレーション・ソフト「PBS(プラント事故挙動データシステム)」も持っていたのです。言わば、第3のシステムです。
3月11日の夜には、PBSの分析データ(なぜか、最も危険な状態だったと見られた1号機ではなく、2号機のものだけだった)が首相官邸に届けられていたのですが、専門家であるはずの原子力安全・保安院の幹部は分析データにメルトダウンへと至るシナリオが書いてあったのに、首相や経産大臣に対してまともな助言ができなかったのです。専門家としての責務を果たしていません。
私は、四国電力の元エンジニアで、原子力安全基盤機構(JNES)に出向してERSSの改良と実用化を担当していた松野元氏にも話を聞きましたし、松野さんの紹介で東芝からNUPEC(JNESの前身)に出向してPBSのシステム設計などを担当した永嶋國雄氏にも会いに行きました。
本では、原発で事故が起きた時のために実効性のある防災システムの開発に取り組む専門家に対して電力会社から圧力があったことなども書いていますが、実態を知れば知るほど、それはもう“痛恨の極み”でした。「なぜ、そうなってしまうのだ!」と大声で叫びたくなるくらい、残念なことばかりなのです。
>>後編『なぜ津波到達までに緊急炉心冷却装置は起動されなかったのか(下)』に続きます。
なぜ津波到達までに緊急炉心冷却装置は起動されなかったのか(下) 『福島第一原発 メルトダウンまでの50年』の著者・烏賀陽弘道氏に聞く|DOL特別レポート|ダイヤモンド・オンライン
2016年4月7日 烏賀陽弘道
1979年、世界初となる「メルトダウン(炉心溶融)事故」を起こした米スリーマイル島原発は、ニューヨークから約270キロメートル、ワシントンD.C.から約160キロメートルに位置する。当時、事故を起こした2号機は廃炉となったが、事故を起こさなかった1号機は85年に再稼働して今も運転が続けられる Photo by Hiro Ugaya
>>(上)より続く
原発がない滋賀県も福井県と運命共同体
――国は、福島第一原発事故を受けて、さまざまなルールを変更しています。3・11の教訓は、近隣住民の避難対策が大きかったはずですが、国は新指針においても「被害は30キロメートル圏内に収まる」というシナリオを前提にしています。その後の住民の避難対策については、どう考えていますか。
そうした国の住民避難対策に疑問を抱いた数少ない地方自治体の首長が、前滋賀県知事だった嘉田由紀子氏です。現在は、びわこ成蹊スポーツ大学学長を務めていますが、私は嘉田さんにも話を聞きに行きました。現在も東北の被災地に通う私には、住民の避難対策における有効性は他人事ではないからです。
滋賀県には原発は1つもありません。ですが、隣の福井県には敦賀湾沿いに計15基の原子炉(建設中の高速増殖炉「もんじゅ」を含む)が集中しており、“原発銀座”と呼ばれています。しかも、福井県と滋賀県の境にある日本原電の敦賀発電所は、滋賀県側から13キロメートルしか離れていません。福島第一原発事故が起こる前までは、滋賀県には原発事故への備えがありませんでした。しかし、福島で起きた事故では、30~50キロ先まで放射性物質が飛散したことを滋賀県に当てはめれば、琵琶湖に降り注ぐことになります。となると、京都府や大阪府の上下水道に影響を及ぼします。そこで、滋賀県は、国に頼ることなく、独自のシミュレーションを基にした避難計画を策定したのです。
――嘉田元知事は「立地地元」ではなく、「被害地元」という新しい概念を発案しました。滋賀県は、43キロ圏内という独自の避難計画をまとめています。
はい。単に、コンパスで円を描いて30キロという想定はおかしいという判断です。放射性物質は、樹木の年輪のように同心円状には飛ばないからです。
嘉田元知事は、住民の避難対策を考える上で、最も矛盾していることとして、指示・命令系統が2つあることを指摘しています。例えば、災害などの「地域防災計画」(災害対策基本法の対象)では避難指示を出すのが市町村長であることに対し、「原子力災害」(原子力災害特別措置法の対象)となると総理大臣になることです。しかも、前者が総務省の管轄である一方で、後者は経産省の管轄下にありました。現在は、原子力規制委員会として環境省の管轄に変わっていますが、総務省と環境省が横の調整をしていないために現場は動けない。
さらに、滋賀県は「原発の立地地元ではない」という理由で、文科省のSPEEDIのデータをもらえませんでした。嘉田元知事は、霞が関で直談判したそうですが、「避難計画にはSPEEDIのデータを使わない」などよく分からない理屈を持ち出して動いてくれない。滋賀県が独自の避難計画を発表した後になって、ようやく文科省はSPEEDIのデータを出してきたそうです。
政府が出す事故対策には「人工的な境界線に固執して、自然現象をむりやり当てはめようとする発想」が頻出します。でも、それでは有効性のある解決策にはならない。福島第一原発事故から丸5年が経った今でも、立地地元ばかり重視する国の姿勢は変わっておらず、縦割り行政の弊害が残り続けています。
例えば、福井県内の原発を再稼働させるために合意が必要となる安全協定では、滋賀県は“蚊帳の外”に置かれています。仮に、滋賀県が反対したとしても、福井県は再稼働できるのです。これは、隣接地域で運命共同体にある実態を考えれば、相当に奇妙な決まり事ではないでしょうか。
本を読んで感じたことはSNSで発信してほしい
――烏賀陽さんは、対談本を含めれば、これまでに国内外で計7冊の原発関連書籍を出してきました。ご自身は、原発の是非をどう考えているのですか。
私は、原発否定論者ではありません。原発というものは、「安全に運転されている限りは、有益なエネルギー源であるはずだ」と考えてきました。その前提が、福島第一原発事故で崩れてしまったことから、このまま日本はどうなってしまうのかと不安を覚えました。私は、米国の原発関連施設などの取材もしてきましたが、日本のクローズドな現状を考えると、暗澹たる気持ちになります。
日本の電力会社の立場になってみると、「どうせマスコミは悪いことしか注目しないし、書かない。だから、本当のことは教えないことにしよう」と考えるようになります。そもそも、原発は、軍隊と同様に権力を持つ組織でなければ扱えません。権力を持つ組織は、どうしたって秘密主義になるのです。米国でもスリーマイル島原発事故が起こるまでは、秘密主義だったそうです。しかし、今日では、外国人であっても、かなりのところまで情報が開示されます(安全保障上の理由から、米国人でなければ立ち入り禁止という施設もあります)。
そう言えば、朝日新聞の記者だった20代の頃に、中部電力の浜岡原発(静岡県)の見学会に参加したことがあります。当時はエネルギーの知識がなかったこともあり、私は「原子炉の中で原子爆弾の爆発と同じことが起きているなんてすごいですね」と発言したら、当時の所長から「原爆と原発を一緒にするとは何事か!」と烈火のごとく怒られました。私は、コントロールする技術力の高さに敬意を表したつもりだったのです(苦笑)。後に私は、米国で、核兵器と原発は“双子の兄弟”であることを学びましたが、日本では違うのです。
ところで、私は今回の本で、(1)1次情報に当たる、(2)現地に行く、(3)当事者に会う、というベーシックな取材方法に徹しました。その結果、「こういう事実が分かりました」という数々の判断材料を提示しています。私は、ジャーナリストの仕事とは、ジャーナルする、すなわち「記録に残すこと」が重要であると考えています。やはり、集めてきた事実に語らせたいと思っています。
現在はフリーランスなので、国内外の取材費はすべて自分持ちになる生活は楽ではないですが、丹念に事実を積み重ねることによって埋もれていた“真相”を掘り起し、世の中に対して問題提起してきました。あくまで私は、「このままでよいのか?」という材料をストレートに提示しているに過ぎません。
5年越しで本を仕上げた著者としては、読者にツイッターやフェイスブックなどのSNSを使って、「私はこの本をこう読んだ」という感想などを世界に向けて発信してほしいのです。声を上げるというより、声を出すという感じで、一人ひとりが“我が事として考える”ことが重要なのです。「私の意見は異なるぞ」ということでも、「烏賀陽の顔が嫌いだ」ということでも構いません(笑)。
日本の原発は、平和利用という側面だけを抜き出して推進された“歪(いびつ)な状態”で始まりましたが、すでに存在している設備です。いきなりゼロに減らすことは現実的ではないでしょう。しかし一方で、福島第一原発事故で被爆した人は約23万人もいて、今も約10万人が自宅に帰れない生活を送っています。被害の規模は、大都市近郊の中型都市が丸ごと1つ消えてしまったのと同じです。
丸5年を迎えた今年も、3月11日前後は東日本大震災を振り返る報道が多々ありましたが、実は今も被災地を回って取材する記者は激減しています。私の願いは、「2回目の福島原発事故を起こさない」ことです。そのために原発災害を記録し続けています。過去の教訓を未来に生かすために書き続けています。
本を手に取った読者は、ぜひ自分で感じたことをSNSで発信してください。
ドワイト・D・アイゼンハワーが気になったのでメモ。
本を読んで感じたことはSNSで発信してほしい
というのが気になる。誤情報を拡散したい?
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